減反政策が日本の農業をだめにした
橋本明子(茨城県石岡市八郷・提携米研究会共同代表)
2008年10月29日、汚染米から米流通を考えるシンポジウム報告テープ起こしより
減反政策が日本の農業をだめにしたと、私自身は思っております。この減反政策が対象としているものは米なんです。
米というのは日本の農業の柱と永らく言われてきました。主食である米に対する農水省、国側の考え方と、私ども食べる側の考え方は反対で、それが端的に現れているのが減反で1970年以来、一貫して続けられています。農水省は「減反政策というものはない、これは生産調整である」と言われます。その名の通り、米の需給操作に終始しています。そこには日本農業を長い目で見てどのようにするか、国民に安全で健康な食を安定的に供給するにはどうしたらいいかという長期的な視点が欠けていたと思われてなりません。それを具体的な歴史から見てみたいと思います。
減反政策は食管法に基づく法的な根拠なしに、単なる奨励政策として続けられてきたところに大きな特徴があります。日本は米の自給を達成することが悲願でした。それは私たちも同じでした。それが達成できた翌々年から、今度はお米がたくさんとれ過ぎ、国の予算を圧迫するから作り過ぎは困るとなりました。余るものは少なくしろという農水省の考えで、全国等しく農民には減反をしてもらおうという発想が生まれたのです。
日本は亜寒帯から亜熱帯まであります。それにも関わらず全国一律で、上からの官僚指導でした。つい最近まで米作りが農家の使命といわれ続けてきて、それは驚天動地の変革だったわけで農家は従えません。農村の基盤は、村の共同体によって維持されています。一緒になってやってきた努力が報われないという無力感で、従われないと思われたのは当然と思います。その農家の気持ちをやわらげるため、「これは緊急避難である」というのが当初の農水の説明でした。「何とかなれば元に戻すから」となだめて実施したわけです。それがそうはなりませんでした。
農家は1割減反されれば、3割増産する。これが合言葉になったのです。従って、1976年からは強制的な手段をとらなければいけないと、罰則付きの強制減反の手法がとられるようになってきました。それが将来にわたって食糧不足が懸念される現在になっても続けられ、さらに強化されています。農民はやる気をなくし、農村は衰退していくばかりです。
「集団的制裁を手段とする減反政策に反対する」
斎藤健一(1996年9月13日)さんの裁判での陳述原稿を紹介します
私は、農家の8代目で、約3ヘクタールの水田と、1.3ヘクタールの畑と柿の果樹園を持っています。
1970年から減反が始まりましたが、第1次は強制ではなかったため、田圃をおおきくする目的で減反に協力しました。しかし、1976年から始まった第2次減反は、政府買付数量の削減や未達加算という罰則をともなうものでした。仲間と勉強会をかさねた結果、減反政策は、国際分業論を背景に、農民の首切り、農村の再編成をめざすものという結論に達し、減反拒否を決意しました。
すると、集落の生産組合長からは、「集団加算金がでないから協力してくれ」と言われ、農協の組合長からは「みんなが我慢してやっていることをやらないのはわがままだ」と恫喝されました。青年部の飲み会に出ると「国賊」とののしられもしました。当時、就任していた村の役職からはすべてはずされました。役場の職員からは「町へペナルティがこないのは、君の分をまわりが肩代わりしてくれているからで、そんなわがままを通していると誰も君を相手にしないぞ」と言われ、村の仲間からは、「あいつがわがままを通しているのが許せない」と反発をうけました。自分が共同体に寄せる思いと、共同体からの締め付けから孤立感にさいなまれ、毎年、転作割当面積が配分されてくる春先は、精神的に相当まいりました。
減反拒否を決意した他の仲間たちは、「減反しないなら集落に配分される集団加算金360万円を自分で全額負担しろ」と脅されて断念し、また、父親から「村に迷惑をかけるなら、でていけ」と言われて泣く泣く断念したものもいました。
周囲の嫌がらせだけでなく、罰則としての未達加算は、1995年には保有水田の3倍に当たる面積が課せられ、政府買い付け限度数量はゼロとなりました。また、公的資金の貸し付けは拒否されました。
減反政策が始まってからの日本の農業は、自分たちが学習したとおり、転落の一途をたどっております。減反によって促進された兼業化は、青年層を農業の外へ追い出し、村に20代の農民はいなくなりました。機械化や農協によるスケジュール防除などにより、田圃に人影はなくなりました。上流部では、耕作放棄の田がひろがり、二度と水田に戻らない状態です。日本の農村風景の破壊であり、日本の農民の歴史にたいする冒涜だと思います。
私個人としては、家族の協力や仲間のはげましで自分の意志を貫けましたが、減反拒否ができなかった仲間たちは、わたしがうけた精神的・経済的苦痛以上に傷つきました。
私は、民主主義国家にあるまじき、集団的制裁の減反政策の廃止を強く求めます。自由と平等にもとずく基本的人権を保障した日本国憲法のもとで、国家の政策によって集団的制裁を手段とする減反政策が強行されていることに、強い怒りをおさえることができません。
以上
昔から泣く子と地頭には勝てぬという言葉あります。室町のその頃から、お上に楯突かず、従うしかないという庶民の哀しいあきらめがあったと思います。イギリスではパブリック・サーバントで、上に立つ人たちは国民のお金を預かって使う、国民につかえるサーバントであると言われます。日本の官僚は反対に自分が主人公としてのさばってきました。そこから、強制だから反抗する、反抗するものはさらに押さえつけるという、内へとこもる仕組みが農村にはびこってしまって今日を招いてしまったと言えます。
しかも、減反が農村のすべてを決める尺度になってしまっています。例えば地方交付税。これは減反を達成していないと交付されません。公共的な施設も減反が尺度です。減反していない限り、農村は共同体としての生活を維持できない構造となってしまいました。
私たちは現状を知るにつけ、日本をダメにするのは農業以前に人を大切にしない農水省の政策にあると、『減反差し止め裁判』を起こしました。ある裁判官は「米が余っているのに減反しなければどうするのですか?」と言いました。私たちはそういうことを問題にしているのではないのです。「農村基盤を危うくし、生産者の基本的な人権さえ守れないような仕組みを直して欲しい」と言ったんです。人権回復の闘いと農業政策の転換です。作るな、作るなと言って、自給を自ら放棄している国に将来があるはずがありません。
全国から1,300人の原告のうち、お米の生産者100名ばかりでした。JAの強いところほど応答がありませんでした。減反実行団体としての農協は国の政策に嵌まり込んでいました。官僚、地方自治体、農協職員といった減反政策に関わる人たちの半数以上は減反で生活できていたのです。本音は減反反対でも、表面で反対はできない立場におかれていました。他の生産物生産者100名が、同じ生産者として自分の問題であると参加しました。その他は食べる側の人たちでした。
当時、九州など南の地方では「もう、米には見切りをつけた。他の農作物を作っている」と回った農家で言われました。尺度は減反ですから、減反協力の形を取って補助金を目一杯もらい、他の作物にあてているから米の裁判には参加しないということでした。栃木県の山村では、「自分は減反に賛成できない。反減反を貫く」と言われた方は、村で誰からも口をきいてもらえないという状態でした。レジュメにも他の事例を載せましたのでお読みください。
私たちの主張したい1つは、米の検査です。生産者ばかりに厳しい。消費者にとって意味の無い米検査は簡略化することです。篩にかけたものだけをはじき、1等米、2等米、3等米の区別はなくしなさいという提案が1つ。
もう1つは、裁判まで起こして主張した減反政策を止めるべきであるということです。世界では食糧増産に回っています。日本も増産に回らなければならない時に、旧態依然の減反を続けているなど理解に苦しみます。自給政策にもっていって欲しいということです。