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大地を守る会の紹介

[ 2005年07月26日 大地を守る会 ]

大地を守る会のホームページを紹介します。 左上に大地宅配の紹介、その下に大地を守る会の紹介があります。大地宅配の紹介では、取り扱い商品の基準、入会方法などが掲載されています。 大地を守る会のコーナーには市民運動、交流活動、見解などが掲載されています。まずはこのホームページで大地のことを知ってください。

大地を守る会では、提携米ネットワークの運動に早期からかかわり、日本消費者連盟とともに、事務局機能を担ってきました。

2003年からは、100万人のキャンドルナイト、 という活動の事務局担当でもあります。

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2005年からは、フードマイレージキャンペーンを開始しています。

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農場便り6月20日号

[ 2005年07月06日 山本開拓農場 ]

2005-007こちらは毎日良い天気で雨不足が続いています。
今年は気温も高めで、田んぼの稲は例年よりも元気で分けつ(茎がふえる)も順調です。
さて、今回は、田植えの写真です。
紙マルチ栽培の田植えのすんだ田んぼから、農道へ田植機を上げているところです。
当然ですが、農道は田んぼより高いので、低いところから高い場所へのぼります。
そのとき、オペレータ(自分)だけでは田植機の重心が、うしろよりになりすぎますので、いくら4WDでもスリップしてうまく上がれません。
そこで、カミさんの出番がきます。
田植機の、なるべく前方へつかまって、その体重をフルに活用します。こうすると機械の重心が前になるのでスムーズに高い場所へ上れます。
結婚以来29年間、私よりもプラス?kg重い、その関係をずっと続けておりまして、近年はその差がなお開きつつありますが、イザの時は、 稲刈り時のコンバインがぬかるみにはまった場合の脱出も同様、実に役立っております。
したがいましてダイエットなどしなくてもよい正当な?理由がございますので、まだこの関係は続きます。

15日、豆さん方の種まきが終わりました。雨が降らないのでまだ発芽していません。このあとはコスモス、にんじんの種まきをします。

27日、遅ればせながら梅雨入りです。恵みの雨が降りました。でもまだ足りません。黒豆の発芽があまりよくないです。

29日、暑いです。稲の害虫、カラバエが多く発生しそうです。大豆の発芽は良好。
にんじんの半分とコスモスの種まきをやりました。
大豆の最初の、除草のための中耕を行っています。
イナゴが元気に?稲の葉を食べ過ぎて困ります。
水の見回りで畦を歩いていたら、突然カモが飛び出しました。ビックリして見ると、足下の巣の中に10個の卵があります。
うまく雛になってくれるように、しばらくは草刈りもやめますが、カラス、トンビ、ヘビなど天敵が多いので心配です。
(カラバエ…稲の体内に 入り、幼穂を食害する)

「イチ子の遺言」を書き終えて

[ 2005年07月01日 橋本明子 ]

「イチ子の遺言」を書き終えて 

橋本明子(提携米通信05年6月号より)

1. イチ子さんゆかりの人たちに会う
「イチ子の遺言」を出版したのは、'05年2月。4月はじめに 「イチ子さんを語る会」が大宮で開かれた。山形からイチ子さんの妹、由美子さんと彼女のともだち、息子の琢朗君が参加、 首都圏からは本を読んで感動した「土を愛する会」の会員、それに片平さんや菜菜穂仔グループと関わってきたひとたちが集まった。 みんながそれぞれのイチ子さんの思い出を語り、暖かさと心豊かさにあふれた時間がながれた。 
 会が終わった後、由美子さんがわたしに話しかけた。今日、ぜひ来たいといっていた人がどうしても来れなかった、 その人を訪ねて高畠に来てほしいのです、と。イチ子さんの告別式に出た後、わたしは本を書くことにかまけて高畠に足を向けないでいた。 わたしは由美子さんに高畠を訪ねる約束をした。足かけ3年がたっていた。
 6月はじめ、わたしは由美子さんの出迎えをうけて、高畠の駅に降り立った。前々回は、イチ子さんが出迎えに出てくれたのだったのに--。 その足で菩提寺へ出向き、お墓におまいりした。つぎは、片平家。なじみの仏壇で読経。夫の潤一さん、仁右エ門おじいちゃんに会い、 イチ子さんの育った川西の山、川など、はじめてのあちこちを案内してもらった。52年の生涯のうち、 高畠で過ごした年月のほうが長くなったイチ子さんだが、彼女が幼い頃を過ごした自然を、あらためて確認する気持ちでわたしは心にきざんだ。
 イチ子さんは生涯の最後の半年近くを、川西の病院で闘病した。そこには由美子さんが勤務しており、彼女と親しい、 看護関係の友人もいっしょになって、イチ子さんと由美子さんを支えてくれた。今回、彼女たちみんなに会うことができ、 わたしまで暖かくむかえてもらった。
 3年前、家族のひとたちはむろんのこと、由美子さんも全力をかたむけて看病した。みんなの支えがなかったら、 もちこたえられなかったろうとの由美子さんの話に、涙がにじみ出た。そしてたったひとりの大切だった姉の死を、 心のどこかでまだうけいれられないでいる由美子さんを、どう慰めたらいいのか、わたしには言葉がなかった。
 その夜、みんなで、川西のたんぼに水を落とす湖のそばで一泊、イチ子さんのこと、みんなそれぞれの生活や家庭のことなど、話し合った。翌日は、 イチ子さん夫婦の長男夫婦、琢朗くん、潤子さんがいまは責任をもつハム製造工場、スモークハウスファインを訪ねた。琢朗くんが、 はじめは母親のことが本になることは反対だったが、紆余曲折はあったものの、いまはよかったと思っている、 本を読んで涙がとまらなかったと話してくれた。わたしは本のおかげで、新しい友人を得、川西、高畠を再発見することができた。

2.わたしの半生
「イチ子の遺言」でわたしは第2話をうけもったが、それはイチ子さんの生きた時代はどういう内実をもつものだったかを語ることであった。結果、 その30年とは、イチ子さんの活動を語るとともに、消費者としていっしょに歩んだわたしの半生をも語ることとなった。もっともわたしの場合、 個人でなく、志をともにすることができた大勢の仲間の半生でもあるのが特徴で、というのもわたしたちの活動は、 一人ではとうてい出来えない性質の活動だったからである。
 高畠有機農研と消費者の物流をともなうつきあいは、はじめぶどう、プラム、りんごといった果物からはじまったが、やがて米流通へと発展する。 その形態は、食管法に基づくもので、食管法堅持をかかげていた高畠有機農研としては当然の行動であった。はじめ、 生産者の希望に副うことが消費者としても当然と思って協力していたのが、食管法の本質を知るにつれ、 その枠のなかで便法を考えているだけではなんの展望も将来に見いだせないとわかった。
 ひとつのヒントは、片平家と横浜こだま舎の米のつきあい方であった。徹底的な援農を組むことで、ご縁のできた消費者には、 直流で米をわたすことに片平夫妻は同意した。全体を揺るがすほどの大量流通ではなかったため、高畠有機農研もしぶしぶ黙認した。
 当時、世の注目を集めた米流通は、生活クラブ生協と遊佐農協の相互扶助の精神にもとづく直流であったが、 これも食管法の自主流通米制度にもとづくものでしかなかった。
 提携米ネットワークをたちあげるに先だって、その理論的根拠を縁故米に求めたのは、國學院大學の大崎さんであった。みんなで肉付けして、 いわゆる御礼制度の仕組みをつくりあげた。が、実際に提携米制度にもとづく米流通がともなわなければ、実効はあがらない。 全国にさきがけて大潟村の黒瀬さんたちのグループが、米を動かして、名実ともに提携米はいきいきとした息吹を吹き込まれることとなった。
 さまざまな反応があったが、全農の米流通担当者がわたしを訪ねてきたことは、いまも忘れられない。彼は、 わたしたちがいかに違法な手法をとっているかを自分の経験にてらして説明した。というより、恫喝したといったほうが当たっているかも知れない。 一種の恐怖を当時のわたしは覚えたが、一歩もひかなかった。いまにして思えば、彼らのほうが恐怖を覚えたにちがいないと思う。

3.「イチ子の遺言」
 さて、3人で書いた「イチ子の遺言」は売れ行きをのばし、現在ほとんど完売、早増刷の勢いといったところだろうか。もともと、 1500部しか印刷しなかった。じぶんたちの力で売りさばける冊数を固く見積もった結果だが、反響が大きく、各地で話題となった。 イチ子さんの地元高畠でも、声をかけられると由美子さんの話である。
 わたしは自分がじゅうぶんにイチ子さんと向き合えなかった悔しさの一部でも、本のなかにイチ子さんを書くことでつぐないたいと思ってきた。 ふじゅうぶんながら、それを果たし、本のなかにイチ子さんの息づかいをとどめられたことに、今は満足している。残された家族、 親族のみなさんのご協力に感謝し、みなさんといっしょにこれからも心豊かに生きていきたいと願っている。

「イチ子の遺言」 紀伊国屋BOOKWEB

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