橋本明子
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2005年の東北確認会で感じたこと

[ 2005年12月31日 ]

2005年の東北確認会で感じたこと
橋本明子


000 一年1回の年中行事の感がある確認会。提携米生産会員のたんぼを見て回る回数が増えて、 年1回会えるのを待っていてくださる方もあり、わたしの楽しみも年ごとに増えていく。今年はとりわけ、みんなに会うのが、 楽しみでもあり、うれしくもあった。
 昨年、台風、高潮、とたんぼのほとんどが被害をうけ、赤茶けたたんぼ、白穂のたつたんぼを、心で泣きながら見て回ったのとくらべ、 今年はどの田も、黄金色の豊作が予想されるのであったから、みんなに会う前から、唇がゆるんで当然だった。





田に 残る稗
 今回は、生産上大きな問題であるたんぼの稗を中心にこの文をすすめたい。除草をどうクリアーするかが、 除草剤に頼らない有機農業の生産者共通の課題である。初期除草を完全にするために、合鴨をたんぼに放す、紙マルチで田植えする、 機械除草を精力的にこなす、冬期湛水、米糠の振り込み、手抜き除草など、さまざまな手法が試みられている。
 米作が経営の柱で、一人15ヘクタールで米作りをする大潟村は、 1ヘクタール1枚のたんぼを、春、均平にならすことからはじまる。 いままでさまざまな除草方法が試みられてきたが、稲が出穂してなお、稗を抜ききれないたんぼが多い。
 稗抜きの最後は人手になる。周辺の村から、たんぼ仕事になれた女性たちが集まってきて、10人、20人とたんぼに列を作って、 手で稗を刈る。
 が、加茂、庄内をはじめ、他の地方では、除草に人手を頼めない、頼みたくても、人が集まらないという。

紙マルチも限界
 加茂では、早くから紙マルチ田植えが普及していた。が、紙マルチは、 3、4年たつと、紙の合わせ目ばかりでなく、稲を植えるときに破られる紙の穴から草が出るようになる。5年以上たつと、稗がいっぱいとなる。
 庄内では、紙マルチ田植機を共同購入して、順に使いまわしている。紙マルチを初めて4、5年たてば、草をおさえきれなくなるので、 他の除草法にきりかえるという。こまかい種もきちんと拾ってくれるのは、合鴨である。イネミズゾウムシなどのやっかいな害虫もたべてくれる。

 しかし、生き物と性のあわない人には無理、またたんぼの立地条件や広さ(大潟村では合鴨をやる人は少数) によっても無理なところがでてくる。今、注目されているのは冬期湛水である。また大潟村では、軟弱な土をかためて、 浅い表土で田植えするなどの方法が試みはじめられた。

農業経営と草
 もう一つ。その人の農業経営の内容如何で、 たんぼの除草におくれが出る場合がある。たとえば、加茂では梨、桃などの果樹栽培と稲作の二つが経営の柱である場合、 果物に手の掛かる時期と、除草の時期がかさなって、たんぼが後回しになる。庄内は、転作田でのだだちゃ豆(枝豆) の収穫期と除草期がかさなる。
 以前、秋田山本町の土橋さんが、大地はカンバス、絵筆こそ持たないが、生産者はその上に自分を表現する、 といった意味の文章を書いたことがある。
何度も同じ人のたんぼをみてまわっているうちに、その人となりがたんぼに表現されていることに気がつく。Kさんらしいたんぼだな、 Aさんらしいたんぼだな、と本人さんを前において、わたしは内心感じ入っていたのだ。こんなやり方で、 その人とのふれあいが深まっていくように思う。
 1週間かけての確認会を終えて帰宅したら、台風14号が北上してきた。ああ、稲穂がたれていたのになあ、と気が気でなかったが、さいわい、 今回はたいした被害にはいたらなかった。ある人が言った。「早く、この手に米をにぎってみたいよ」ぜひ、そうなっておくれ、 たとえ米の市況が下がろうとも、無事に収穫をおえておくれ、というのが、今のわたしの切なる願いである。


0000 ひえぬき風景(大潟村)

















 

遺伝子組み換え隔離圃場の見学

[ 2005年09月11日 ]

遺伝子組み換え隔離圃場の見学
提携米ネットワーク  橋本明子
 9月7日、日本モンサントの隔離圃場を見学した。茨城県河内町、 そこは利根川近く、竜ヶ崎市をではずれて、成田空港にむかう田園地帯のなかにある。隔離圃場とは、モンサントの説明によると、 「普通の環境を模した圃場で、遺伝子組み換え作物が自然に増えないように、花粉等が圃場の外の植物に影響を与えないよう木々やフェンス、 防風網に囲まれています。」

なにからの隔離なのか
 現地は、集落の一角にあって、周囲には人家があり、なかでも1軒は、圃場の一隅に食い込んでいて、 その家の庭先で遺伝子組み換え芝とてんさいの実験が行われているのには、驚いた。もちろん、庭はフェンスで隔てられてはいるものの、 ひろがる圃場が、その家の庭から見える景観の大部分である。圃場はまず、人からの隔離を考えてはいないようである。
 周囲に巡らされたフェンスは、頑丈ではあるが、人が越えられる高さである。モンサントの説明どうり、これは防風網であって、 花粉などの飛散防止措置としては不十分である。当日は台風一過後で、まきかえしの強風がふきすさんだが、防風網など、 なきに等しい状態を実際に体験した。また、監視カメラがついているそうだが、肉眼では確認出来なかった。
 圃場の上空はなんの障害もない大空である。カラスよけに、かかしが3体,組み換えとうもろこしのそばに立てられていた。この程度では、鳥、 虫は自由に出入りできる。事実、とうもろこしには、食害された痕跡をみることができた。穂先のない実は、鳥などにもちだされたに相違なく、 持ち出した動物の糞尿が周辺を汚染することは、確実である。

残っていた雄ずい(とうもろこしの雄しべの穂)
 組み換え作物の実験後の処理は、 すきこみ、実などの焼却、とのことであるが、作業手順を聞いてみると、一定の日にとうもろこしの花(雄しべの穂)のつみとりをして、あとは、 マニュアルにしたがって他の作業にうつるそうである。遺伝子組み換えとうもろこしは、40本植えられていたが、そのうち2本からは、 あとからでた脇芽に花がつき、それがそのまま立ち枯れているのをみた。説明では、この花には受粉能力がないという。はたしてそうか。 疑念は残って当然である。
 隔離というのは、人里も離れず、鳥、虫の出入りも自由であるとは想像していなかったので、同じ茨城県内で、畑をたがやすわたしには、 これではだめだ、という失望と怒りがこみあげてくるのを、どうしようもなかった。なのに、この圃場は、 国の認可をうけていると広報の女性は鼻高々であった。

虫がついていた害虫抵抗性組み換えとうもろこし
 長方形のとうもろこし畑は、 真ん中に組み換えとうもろこし、周辺に普通のとうもろこしが2つ、ひとつは殺虫剤散布区、ひとつは散布なしの対照区がつくられている。 モンサント810系統種で、飼料用のデントコーン、茨城地域の適作 品種で、すでに商品化の許可をとっているとの説明であった。
 モンサントの説明では、この品種は世界的に広く栽培されており、その害虫駆除の効果を確認できるよう、展示圃場として公開しているのだそうだ。 見学者が多いことは、もとはたんぼであろうか、粘土質の土がかたく踏みかたまっていることからも想像できた。
 が、注意深く見ていた見学者のひとりが、組み換えとうもろこしの実に巣くっているアワノメイガを発見した。 組み換えでないとなりの対照区ではじめみつけたのだが、アワノメイガをみたことがなかった消費者に「これがアワノメイガです」 との説明があった直後である。説明した場長は、この虫はどこにでもいますよ、とつけくわえたのである。 うけあったとうり、 次のアワノメイガ発見された。が、こともあろうに、虫を退治するはずの組み換えとうもろこしから、アワノメイガが発見されたのだ。 モンサントの名誉にかかわるではないか。
 遺伝子組み換えはだめってことですね。ムムムーーー。見学者の周囲をとりかこむように、モンサントの技術系の社員が5,6人つきそっていたが、 沈黙あるのみであった。
 さらなる問題は、アワノメイガ駆除目的の組み換えとうもろこしでは、他の害虫に効かない。 甘い汁を吸って実をだめにするカメムシが多い茨城では、遺伝子組み換えアワノメイガ駆除も100パーセント期待出来ない上に、 カメムシその他の害虫駆除に、ことなる殺虫剤まで上乗せして使わねばならないという、ナンセンスな事態を招くことになる。
 また、組み換えとうもろこしのなかに生き残っているアワノメイガが,耐性を持ってしまうだろうことも、容易に想定できる。 BT剤はCODEXでも、日本の有機JASでも承認ずみのいわゆる生物農薬で、ヨーロッパをはじめ日本でも使用されている現状である。 組み換えによる耐性をもった生物が、BT剤に与える影響は、深刻なものになると想定される。

はじめてみたアメリカの搾油用大豆
 以前、アメリカのコーンベルト地帯を視察したとき、地平線までひろがる広大な畑にとうもろこしか、 大豆のいずれかが栽培されていたのを思い出したが、残念なことに、どちらも生育途中で、実をつけた大豆は、 ここではじめておめにかかることとなった。
 とうもろこしと同じように、額縁の真ん中にかこまれるようにして、組み換え大豆が実をつけていた。これはラウンドアップレディ大豆、 食用ではなく油脂用の除草剤耐性大豆である。除草剤ラウンドアップを散布しても大豆が立派に育つので、省力大量生産に向くと宣伝されてきた。
 実際にみる大豆の葉は小型でいろがこく、実は一見カビがはえているように白い絨毛でおおわれている。実も小型である。 となりに植えられているのは、日本の食用大豆エンレイで、これとの交雑が試験されていた。隣り合って植えて、実をつけたエンレイを種として、 となりの圃場で栽培、その実を分析して結果をみるという。となりの畑はすでに収穫を終え、鋤きかえされていた。 交雑試験の結果は語られなかったが、交雑の心配があるからこそ、時間と費用をかけての交雑試験である。
 組み換え大豆畑では、40センチ、50センチくらいの広さで、大豆の立ち枯れが2カ所みうけられた。 うまくいかない場合もあるとの説明だったが、だとすると、組み換え大豆は、病気に弱いのか、虫に弱いのか、実際では、 多収だと宣伝されているのに、反対の実態をここでも実際に見せられたのである。

芝とてんさいが日程に
 組み換えとうもろこしと組み換え大豆の隣りに、施錠して、 目を細かくした網で囲った圃場があり、なかに芝とてんさいが植えられていた。希望したが、ここは未公開で、網の外からのぞいてくださいとのこと。
芝はアメリカ種でグリーンに使うのだそうである。遠くからみたところ、青々ときれいに育っているようだった。 ここでは土壌検査が行われているという。この圃場をL字型の囲んで、水路が流れている。周辺は水田地帯。 水を圃場内にとどめておく施設はみあたらない。芝やてんさいに使った水は、当然水路を伝わって、流域一帯にひろがっていくであろう。 雑草防除の組み換えが、ここでは主なテーマと聞いた。

汚染の懸念
 はじめにも触れたが、ここは利根川流域の水田地帯に位置し、竜ヶ崎市からさほど遠くなく、河内町の町の一角に立地する。ここへ進出したのは、 河内町町長みずからの協力によるとのことであるが、成田空港はじめ、日本の主な農業地帯のひとつのなかに、隔離圃場とはとうてい判断できない、 周辺に未知の汚染が懸念される施設が存在することは、現在、将来の生命ぜんたいにたいし、危険というほかない。
        わたしたちは、この事実をしっかりと胸にきざみ、 未知の危険が予想されるものは、いらないのだ!の声をこれからも粘り強くあげつづけていこう。

「イチ子の遺言」を書き終えて

[ 2005年07月01日 ]

「イチ子の遺言」を書き終えて 

橋本明子(提携米通信05年6月号より)

1. イチ子さんゆかりの人たちに会う
「イチ子の遺言」を出版したのは、'05年2月。4月はじめに 「イチ子さんを語る会」が大宮で開かれた。山形からイチ子さんの妹、由美子さんと彼女のともだち、息子の琢朗君が参加、 首都圏からは本を読んで感動した「土を愛する会」の会員、それに片平さんや菜菜穂仔グループと関わってきたひとたちが集まった。 みんながそれぞれのイチ子さんの思い出を語り、暖かさと心豊かさにあふれた時間がながれた。 
 会が終わった後、由美子さんがわたしに話しかけた。今日、ぜひ来たいといっていた人がどうしても来れなかった、 その人を訪ねて高畠に来てほしいのです、と。イチ子さんの告別式に出た後、わたしは本を書くことにかまけて高畠に足を向けないでいた。 わたしは由美子さんに高畠を訪ねる約束をした。足かけ3年がたっていた。
 6月はじめ、わたしは由美子さんの出迎えをうけて、高畠の駅に降り立った。前々回は、イチ子さんが出迎えに出てくれたのだったのに--。 その足で菩提寺へ出向き、お墓におまいりした。つぎは、片平家。なじみの仏壇で読経。夫の潤一さん、仁右エ門おじいちゃんに会い、 イチ子さんの育った川西の山、川など、はじめてのあちこちを案内してもらった。52年の生涯のうち、 高畠で過ごした年月のほうが長くなったイチ子さんだが、彼女が幼い頃を過ごした自然を、あらためて確認する気持ちでわたしは心にきざんだ。
 イチ子さんは生涯の最後の半年近くを、川西の病院で闘病した。そこには由美子さんが勤務しており、彼女と親しい、 看護関係の友人もいっしょになって、イチ子さんと由美子さんを支えてくれた。今回、彼女たちみんなに会うことができ、 わたしまで暖かくむかえてもらった。
 3年前、家族のひとたちはむろんのこと、由美子さんも全力をかたむけて看病した。みんなの支えがなかったら、 もちこたえられなかったろうとの由美子さんの話に、涙がにじみ出た。そしてたったひとりの大切だった姉の死を、 心のどこかでまだうけいれられないでいる由美子さんを、どう慰めたらいいのか、わたしには言葉がなかった。
 その夜、みんなで、川西のたんぼに水を落とす湖のそばで一泊、イチ子さんのこと、みんなそれぞれの生活や家庭のことなど、話し合った。翌日は、 イチ子さん夫婦の長男夫婦、琢朗くん、潤子さんがいまは責任をもつハム製造工場、スモークハウスファインを訪ねた。琢朗くんが、 はじめは母親のことが本になることは反対だったが、紆余曲折はあったものの、いまはよかったと思っている、 本を読んで涙がとまらなかったと話してくれた。わたしは本のおかげで、新しい友人を得、川西、高畠を再発見することができた。

2.わたしの半生
「イチ子の遺言」でわたしは第2話をうけもったが、それはイチ子さんの生きた時代はどういう内実をもつものだったかを語ることであった。結果、 その30年とは、イチ子さんの活動を語るとともに、消費者としていっしょに歩んだわたしの半生をも語ることとなった。もっともわたしの場合、 個人でなく、志をともにすることができた大勢の仲間の半生でもあるのが特徴で、というのもわたしたちの活動は、 一人ではとうてい出来えない性質の活動だったからである。
 高畠有機農研と消費者の物流をともなうつきあいは、はじめぶどう、プラム、りんごといった果物からはじまったが、やがて米流通へと発展する。 その形態は、食管法に基づくもので、食管法堅持をかかげていた高畠有機農研としては当然の行動であった。はじめ、 生産者の希望に副うことが消費者としても当然と思って協力していたのが、食管法の本質を知るにつれ、 その枠のなかで便法を考えているだけではなんの展望も将来に見いだせないとわかった。
 ひとつのヒントは、片平家と横浜こだま舎の米のつきあい方であった。徹底的な援農を組むことで、ご縁のできた消費者には、 直流で米をわたすことに片平夫妻は同意した。全体を揺るがすほどの大量流通ではなかったため、高畠有機農研もしぶしぶ黙認した。
 当時、世の注目を集めた米流通は、生活クラブ生協と遊佐農協の相互扶助の精神にもとづく直流であったが、 これも食管法の自主流通米制度にもとづくものでしかなかった。
 提携米ネットワークをたちあげるに先だって、その理論的根拠を縁故米に求めたのは、國學院大學の大崎さんであった。みんなで肉付けして、 いわゆる御礼制度の仕組みをつくりあげた。が、実際に提携米制度にもとづく米流通がともなわなければ、実効はあがらない。 全国にさきがけて大潟村の黒瀬さんたちのグループが、米を動かして、名実ともに提携米はいきいきとした息吹を吹き込まれることとなった。
 さまざまな反応があったが、全農の米流通担当者がわたしを訪ねてきたことは、いまも忘れられない。彼は、 わたしたちがいかに違法な手法をとっているかを自分の経験にてらして説明した。というより、恫喝したといったほうが当たっているかも知れない。 一種の恐怖を当時のわたしは覚えたが、一歩もひかなかった。いまにして思えば、彼らのほうが恐怖を覚えたにちがいないと思う。

3.「イチ子の遺言」
 さて、3人で書いた「イチ子の遺言」は売れ行きをのばし、現在ほとんど完売、早増刷の勢いといったところだろうか。もともと、 1500部しか印刷しなかった。じぶんたちの力で売りさばける冊数を固く見積もった結果だが、反響が大きく、各地で話題となった。 イチ子さんの地元高畠でも、声をかけられると由美子さんの話である。
 わたしは自分がじゅうぶんにイチ子さんと向き合えなかった悔しさの一部でも、本のなかにイチ子さんを書くことでつぐないたいと思ってきた。 ふじゅうぶんながら、それを果たし、本のなかにイチ子さんの息づかいをとどめられたことに、今は満足している。残された家族、 親族のみなさんのご協力に感謝し、みなさんといっしょにこれからも心豊かに生きていきたいと願っている。

「イチ子の遺言」 紀伊国屋BOOKWEB

ほんの紹介

[ 2005年06月05日 ]

 さきほど、自分の歴史を、高畠有機農研とのかかわりで書いた本を三人の女性で書いた。(テストかき込み)

書き込みテスト3です

[ 2005年06月05日 ]

書き込みテスト3です。

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