2000年産地確認会
[ 2000年12月31日 産地確認会 ]
提携米栽培確認会報告
今年は、6月に高知生産者連合、7月に新潟の加茂有機米生産組合、秋田の山本開拓農場を訪問し、栽培確認会を行いました。また、
7月の際には、途中、庄内協同ファーム、遊農クラブ、ライスロッヂ大潟も短時間ながら訪問し、ほ場を確認しました。
高生連、加茂有機米生産組合、山本開拓農場について報告します。
(事務局 牧下圭貴)
提携米2000年収穫状況
[ 2000年12月31日 産地確認会 ]
●高知生産者連合~松林さんからの報告
(気温の推移)…田植え時期の3月下旬~4月中旬は、平年並み。田植え後しばらくは低温続き。
5月の分ケツ期には一転高温状態、後半には再び低温状態にと乱高下し、6月になってやっと平年並みに落ち着きました。その後も、
全国的な高温状況とは違って、平年並みでした。
(雨の降り様)…3月の大雨で田んぼは潤い順調な田植え。4月5月は乾期の様相。山間部の田では、
水不足の心配もされたが6月に入るや早めの入梅(6/3)。小刻みに降ったり晴れたりで、稲にとっては理想的。
普通だったら梅雨末期の豪雨が来る7月は、前半は晴れ晴れの乾期。日照りの中の登熟期。梅雨らしい豪雨を伴った長雨は、
梅雨明け後の7月下旬から8月上旬。昨年に引き続き、収穫期の始まりは雨の中。台風も来ず、中旬からは再び晴続きで刈り取りも順調に終了。
(収穫時期)…メリハリのついた天候により、生育が遅れたり少し早まったりで、結局は例年に比べ、3日ほど早い程度で、ほとんど平年並み。
(収穫量)…平年並みか、チョットいいくらいか。言われるほどの豊作でもないように思われる。
(米質)…出穂期は降ったり晴れたりでイモチ病も少なく、登熟期に日照量が多く、米粒の充実具合は例年に比べ良好。モミ擦り時、米選で出る
“二番口”(くず米)も、概して少なかったようです。
(価格)…今年は、昨年スタート時より50円/5kgマイナスでのスタート。米価にドクターストップを!
●山本開拓農場(秋田)
~土橋さん(9月3日現在)
作況指数は高いが、籾数は平年より6%少なく豊作ではないと言う人と、豊作だという人があり、実際に擦ってみなければ分からない。
今年は、背丈が伸びすぎ。雨が降れば確実に倒れる。
今年は、地域的にイモチ病が発生している。土橋さんのほ場では木酢で防除したのが功を奏したのか、とくにひどくはない。
モンガレは雨が少ないので大丈夫。
昨年被害のひどかったカメムシだが、7月後半まではいた。しかし、8月にはいるといなくなった。暑さの影響かも知れない。
米の味は昨年よりもよいだろう。特にアキタコマチに期待が持てる。
稲刈りは9月15日頃。例年より10日~15日早い予定。
●庄内協同ファーム(山形)
~斎藤さん(9月3日現在)
残暑が厳しい。例年よりかなり早く、山手側ではヒトメボレなど稲刈りがはじまった。山形で8月中に稲刈りがはじまるのは久しぶりのことである。
例年より半月早い。
この地域でも昨年カメムシが大発生した。慣行農家では例年以上の防除を行っており、この防除派との間で軋轢があった。やむなく、
庄内協同ファームとしての基準を下げた田んぼもある。これらは提携米には出荷されない。
しかし、カメムシは8月から姿を現さなくなった。
●遊農くらぶ(山形)
~尾形さん(9月3日現在)
猛暑であった。作況は今までで一番良いのではないだろうか。特に虫が少なかった。今年は、コイ除草、アイガモ除草、それに、
実験的に米ぬかをわかして除草効果を狙ってみたが、コイ除草はだめだった。
サギが多くてコイがおびえあまり動かなかったためかヒエが多く見られる。今のところアイガモがベストで、アイガモは虫も食ってくれるのだが、
手間がかかる。
今年の収量はとってみなければ分からないが期待できる。水も鳥海山の雪のおかげで大丈夫。
平場では稲刈りがはじまっている。9月10日頃から稲刈りをはじめる予定で例年よりかなり早い。
●ライスロッヂ大潟(秋田)
~黒瀬さん
今年は、去年ほど暑くないが、9月のはじめまで45日間雨がまったく降らなかった。しかし、夜温は去年よりも低かった。
稲は気温差があると登熟が進むので、その結果、収穫が平均して10日ぐらい早くなっている。
また、味の方も気温差があったので、去年よりおいしいだろう。
作柄は、大豊作とは言えないが、平年よりもよく、イモチ、カメムシの被害はほとんどない。ただし、カメムシについては、
昨年の大発生で慣行の人たちが防除を強くしており、それで目に付かなかったのかもしれない。農薬をふっていない仲間が米をすってみて、
どのくらい出ているかが分かるだろう。
消費者運動の流れと提携米運動
[ 2000年12月01日 レポート ]
清水淳一(ネットワーク草の根)
消費者運動の流れ
私たちや子どもたちの食べ物の安全性はもちろん、
日本の農業や環境問題をも広く視野に入れた今日の消費者運動。その原点となったのは、1962年に出版されたレイチェル・カーソン女史の著書
『沈黙の春』でした。カーソン女史は、農薬汚染による地球的規模による自然環境破壊・環境汚染に警鐘を鳴らしました。『沈黙の春』は、
私たちに自然の循環の摂理と、自然の大切さを認識させ、世界的規模で地球環境問題を考える指針となりました。
日本においても1973年、作家・有吉佐和子が、その著書『複合汚染』で「食物連鎖」による人体への影響に光をあて、大きな反響を呼びました。
これをきっかけに、消費者運動にさらにはずみがつきます。
戦後の食糧難の時代の“生活防衛”から始まった日本の消費者運動は、
1:戦後民主主義に基づき国民としての権利を主張し、より安い消費者価格を求める権利主張・要求型運動(50~60年代)から、
2:さまざまな情報やデータに基づき、環境汚染や食品公害について国や企業の責任を告発し追及する告発・追求型運動(70年代)
3:そして、具体的なモノのやりとりを通じて自立をめざし、生産者や企業も巻き込みながらモノづくりをすすめようとする自立・提案型運動
(70~80年代)
へと、大きく進展してきました。
「要求型」→「告発型」→「提案型」という流れをへて、消費者運動は、声高に要求や告発を行なう運動から、自らの生活の質を問い、
変える運動へと進展してきました。つまり、「日常生活の次元で起こる具体的なコトやモノを通して、社会のしくみや政治のあり方を考え、
原因の究明と解決のための糸口を、自分の身近なところから見出そう」「環境や食べ物や暮らしをとりまくさまざまな問題を、
自分の生き方の問題として捉えるよう」とする考え方に基づいた日常的な実践へと、変わってきました。
「農」と「食」の工業化
1960年代~1970年代にかけて、日本は高度経済成長の名のもとに、工業化への道をひた走りました。工業化を優先する一方で、
農業を軽視し、切り捨て、あるいは農業の工業化をおしすすめてきました。工業製品を海外に輸出し、
その対価として食糧を海外から輸入して表面的に貿易収支の均衡をとりつくろうという、工業優先・農業軽視の政策により、
国内の食糧自給率は低下の一途をたどりました。穀物自給率にいたっては、現在では30%にまで低下しています。
工業優先の政策は、「消費は美徳」という価値観、つまり、大量生産・大量消費・使い捨て社会を生み、
今日のゴミ問題など深刻な社会問題を引き起こしました。公害問題が社会問題化し、チッソ水俣病に代表されるように、反公害運動や薬害、
食品公害運動が全国に巻き起こりました。
農村においても、化学肥料が多投され、大量の農薬が散布されました。工場の周辺ばかりか、農業の現場でも、すさまじい勢いで環境破壊・
環境汚染が進みました。
「工業の論理」が農業の現場にも持ち込まれていったのです。生産量拡大と経済効率優先の政策のもと、農村は農薬や化学肥料に依存し、
大型機械化などの設備投資をおこない、ひたすら規模拡大の道を歩んでいきました。営農指導や農業機械・資材の販売あっせん、農家への融資、
共済制度や助成制度などを取り仕切る農協が肥大化し、小規模複合経営農業や、伝統的な自然循環型農業は地域の中から排除されていきました。
石油タンパクとロングライフミルク
日本の農業、そして食品の工業化を象徴するのが、石油タンパクです。
SCP(微生物タンパクの略称)いわゆる石油タンパクの生産は、1972年にはすでに実用化の段階に入っていました。1976年、「食の安全性」
を求め、薬害や食品公害追放運動をしている学者や消費者を中心に、石油タンパクを拒否する全国的な運動が展開されました。
消費者の激しい抵抗にあい、国と企業は石油タンパクの実用化を一時断念しました。
もう一つ、工業製品輸出の代わりに農産物や食べものを輸入し、コスト競争を強いて、農と食の工業化をもたらす政策の象徴的な例を、
ロングライフミルク(以下LL牛乳)にみることができます。政府は、貿易収支不均衡の改善を迫る欧米の圧力に押され、それまで“聖域”
とされてきた「生もの」の牛乳まで輸入しようとしました。そこで浮上したのが、LL牛乳です。
LL牛乳は、冷蔵することなく(常温で)長期保存(90日間)が可能というもので、過度な加熱温度(140度)で殺菌され、
栄養成分の熱変性がおこった牛乳です。欧米では「生」の牛乳として飲用されるよりも主として料理用として使われているものです。1977年、
厚生省は牛乳の「要冷蔵」撤廃の動きに出ました。「要冷蔵」のルールを撤廃することにより、
常温で長期保存が可能なLL牛乳の輸入が可能になります。
国のこうした動きに対して、「LL牛乳は子どもに飲ませたくない」「自然の中に放牧された牛から搾った、
安全でおいしい牛乳を子どもに飲ませたい」と、全国のお母さんたちが立ち上がりました。
北海道の十勝から「よつ葉牛乳」を産直共同購入していた関東・関西の消費者が中心となり、LL牛乳反対・「要冷蔵」
撤廃反対運動が巻き起こりました。
提案型運動、そして提携運動の芽生え
LL牛乳反対運動は、全国の消費者団体はもちろん、生産者団体、乳業メーカー、そして販売店など一般市場も巻き込んだ画期的な運動でした。
しかし、消費者団体の中でも、日本生活協同組合連合会(以下日生協)に加盟している多くの生活協同組合は、この反対運動に参加しませんでした。
理由は、コープ神戸(当時は灘神戸生協)を中心とする日生協が、
労働者の労働軽減と経営の合理化のためLL牛乳を導入することになっていたからでした。
主婦連や消団連、生活協同組合などの消費者運動は、「消費者価格を安く」という、消費者の経済的な面での“生活防衛”を主としたものでした。
それに対し、LL牛乳反対運動は、「“食の安全性”を市場原理に埋没させない」ことを目的とした消費者運動でした。
戦後に始まった「要求型」の運動ではありません。さらに、「告発型」からも一歩踏み込んだ、生産者やメーカー、販売店、
市場をも巻き込んだかたちで、より良いモノづくりを実現しようという、新しい消費者運動の方向性を示すものでした。「提案型」運動です。
LL牛乳反対運動は、それまでの「告発型」運動のように学者など専門家に頼るのではなく、消費者自らが学び、調べる。そして、
その補足として専門家や学者の力を借りる。消費者自らが自立し、自己責任によって参加し、新しい価値をつくる運動であり、消費者運動の「質」
を大きく転換させた運動でした。それはまた、食の安全と日本の農業を守り、日本農業が再生できる社会基盤を生産者と共につくりあげる、
消費者と生産者との提携運動でもありました。
都市の消費者と、地域の生産者が、たがいに情報を開示し、顔の見える関係を築きながら、農産物や食品の質を変えてゆく。
さらに各地域の乳業メーカーや販売店と消費者が結びつきながら、おたがいに納得のゆくたべものをつくり、育ててゆく運動です。
LL牛乳に反対する全国の消費者の団結と、生産者やメーカーとの対話と協議の積み重ねの中から、低・高温殺菌牛乳が実現していきました。
提携米運動へ
合成洗剤追放、LL牛乳反対運動を通じて見出された新しい消費者運動の流れは、その後の反原発、ゴルフ場反対運動、
米の減反反対運動などへと引き継がれていきます。
そうした中で、米の減反反対運動は、「自立・自己責任」のとれる生産者と消費者の結びつきの中から、「提携米運動」や「減反反対裁判」
を展開し、長い間、国によって統制されてきた食管法を廃止に追い込む原動力となりました。
食管法は、生産者と消費者を国が介入して分断してきた古い法律です。
長い間、米は産直することができませんでした。戦前の食糧難の時代、統制経済のもとにつくられた「食管法」が、戦後になっても、
国の支配構造をささえるために維持されてきたためです。
1960年代後半、米の供給過剰が続き、1970年から減反政策がおしすすめられました。減反政策は、農民の生産意欲を殺(そ)ぐものでした。
それは、たてまえは「農民一人ひとりが自主的判断によって協力する」というものでしたが、実際には、
減反しない者には補助金等の制度を利用できないようにするなど、農民に減反を強要するものでした。
この理不尽な(なんら法的根拠のない)強制減反に反対する運動に、消費者が立ち上がったのです。
その契機となったのは、当時の政府による韓国米緊急輸入でした。
1984年、国は、農民に強制減反を強いながら、その一方で「米不足」を理由に韓国米を緊急輸入しました。
減反政策の矛盾があらわになりました。
「アメリカからの輸入自由化要求が強まるなかで、韓国米の緊急輸入が行われた。いよいよ、米が輸入される事態になるのでは…」そうした危機感が、
私たちを突き動かしました。
1985年、かつてLL牛乳反対運動をたたかった消費者の仲間が、全国の消費者団体、生産者団体、販売店に呼びかけ、
「ジョーダンじゃないコメ輸入!米の輸入自由化反対」をスローガンに、東京の四ツ谷公会堂において全国集会を開きました。
農村の現実
当時、有機農業を営んでいる農民と消費者は、(食管法により自由な取引ができなかったため)「農家の保有米をいただく」という名目で、
あるいは特別な米として、農協に手数料を支払い、表向きは農協扱いとして産直をしていました。そして、農協通しの実績数字を上げ、
それを隠れ蓑に、農家から直接の米の引き取り量を増やしていきました。いわゆるヤミ米です。また、農協や販売店に手数料を支払い、
伝票だけ通す手法もとられていました。
それでも消費者は、米の産直にこだわり続けてきました。米は日本農業の基幹作物であり、日本人の主食です。「安全な、おいしい米」
をつくる農家と、それを求める消費者が、国の政策によって断ち切られた状況をいかに打ち破るかは、大きな課題だったはずです。
私たちは、それまで有機農業を実践し、先駆的役割を担ってきた農民に、「反減反を鮮明にした米の提携産直」を呼びかけ、協議を繰り返しました。
しかし、残念ながら、彼らの中からの参加はほとんどありませんでした。
それどころか、有機農業を営み、すでに消費者と米の産直提携している多くの農民が、国や農協、食管堅持派農民と一体となって、
「減反拒否派農民は、食管制度の法律違反をしている。自分たちは減反したくないのに減反を守っている」「減反をしない農民はけしからん。
自分たちだけが儲けようとしている」として、彼らは減反拒否派農民を村八分にしょうとしました。
営農面では有機農業に取り組む進取の精神をもつ人びとでさえ、国や農協にすがった、他力本願の経営体質がしみついていたのです。
自立した、独自の経営や営農をめざす同じ農民に対して、被害者意識をあらわに、敵対した行動に出ました。
しかし、彼らだけを責めることはできません。それが、長い間食管制度に囲い込まれ、農協の支配下におかれてきた農村の現実でした。
自主作付け・反減反のたたかい
こうした農村の現実に絶望していた私たちは、東京での全国集会に参加していた秋田県大潟村の自主作付け・反減反派農民や、
山形県庄内で反減反を実践している農民と出会い、米の運動に取り組む希望を見出しました。
集会後、集会に参加した消費者5名と山形県庄内の生産者1名が集まり、国に対して「食管制度」と「減反」
に対するたたかいを挑む決意をしました。「この大潟村の農民と産直提携する以外に、米の運動の活路を見出すことはできない」
と私たちは考えました。そして、「警察権力に真っ向から立ち向かっているこの生産者なら、お米の出荷寸前にいろいろな妨害があっても、
必ず約束は果たしてくれるだろう」と確信した私たちは、産直提携を申し入れるため、ただちに大潟村に出向きました。農民リーダーの黒瀬正氏宅で、
あらためて提携産直と反減反をともにたたかう確認をし合いました。
大潟村の自主作付け・反減反のたたかいは、1981年から始まっていました。1984年には警察も導入された、激しいたたかいでした。
自主作付け・反減反派農民は、警察、食糧事務所や食管堅持派農民から数々の嫌がらせと差別を受けていました。「ヤミ米生産者」呼ばわりされ、
「国賊」とまで言われて、全国の反目をかっていました。
大潟村を後にした私たちは、もう一つの産地として集会に参加していた山形県の庄内協同ファーム(当時は庄内農民レポート)に行き、
同様の確認をしました。庄内の産直提携米の取り扱い相手は、反減反農民2人だけですが、反減反の運動については組織(庄内協同ファーム)
としてたたかう意志を確認することができました。
自らの生き方と力量が問われる運動
食管堅持派農民から「国賊」とまで言われた「大潟村」の農民をはじめとする、反減反農民と提携産直することは、私たち消費者にとっても、
自らの存亡をかけたたたかいになりました。
「安全でおいしい」米づくりがしたい生産者と、「安全でおいしい」米が食べたい消費者が、「日本の水田を守ろう」をスローガンに、
これからの農業とその基盤を守り引き継ぐことを誓い、両者間で取引する米を「提携米」と名づけました。
「顔の見える付き合いの中で生産者と消費者が米を受け渡しする」「消費者が“水田を守ろう基金”を積み立てる」「それを、
水田を守る資金として生産者に活用してもらう」ことを確認し、提携米のやりとりが始まりました。
1987年、「自立した・自己責任のとれる」生産者と消費者の「提携米運動」が始まりました。そして生産者、消費者双方による
「提携米アクションネットワーク」を結成。しだいに運動の輪が広がっていきました。
この動きに対して、政府食糧事務所は、農協や食管堅持派農民と手を結び、私たち反減反派生産者・消費者にさまざまな手段で圧力を加え、
妨害をしてきました。
今度は、私たち消費者の側の生き方と力量が問われる段階になりました。
当時、組織の大きい消費者グループ、「大地を守る会」や「らでぃっしゅぼーや」は、米の引き取りには参加しませんでした。一歩誤れば、
組織が空中分解しかねないという判断があったからです。
私たちは「運動」をともに担うという一点で合意しました。そして、奈良よつ葉牛乳を飲む会を中心に、
引き取れる団体のみで出発することになりました。
日本の水田を守ろう
提携米アクションネットワークは、「日本の水田を守ろう」基金の形成を呼びかけ、個人・団体に産直提携を始めました。そして、
本部を日本消費者連盟内に置き、個人注文の産直提携米は、日本消費者連盟扱いとすることにしました。
日本消費者連盟は、全国的な消費者運動の情報発信基地であり、常に先進的な消費者運動の母体となってきました。しかし、その経済基盤は脆弱で、
カンパやボランティアに頼っての運営を余儀なくされていました。そこにモノのやりとりを持ち込み、経済的基盤の確立をはかることが、
私たちの目的の一つでした。
提携米の運動は、農民の農繁期を除いて、断続的に生産者と消費者が東京に集まり、夜を徹しての討議を繰り返してきました。
それを通じて両者の信頼関係はより強固になり、新しい生産者や消費者の参加の輪も広がっていきました。
1992年、農水省が「有機農産物表示ガイドライン」を発表しました。農水省は、このガイドラインを基に、JAS法の「改正」を行い、
有機農産物などに対してJAS規格を与える方針を打ち出しました。
この動きに対しても、提携米アクションネットワークはいち早く取り組みました。全国に集会を呼びかけ、「有機農産物ガイドライン」
に対する自主的な基準づくり提唱して、「栽培出荷基準」をつくりました。
1994年には、「とりもどそう、日本の農を!いのちの権利を!」をスローガンに、「減反やめよう!コメつくろう!全国ネットワーク」
をつくり、1000人を超える原告希望者を集めて「減反政策差止め訴訟」の訴状を、東京地方裁判所に提訴しました。
この裁判は現在も東京地方裁判所で継続されています。
子供たちにやさしい、新しい風を
「強制減反」は、日本の水田面積を約30%も減少させたばかりか、生産者の生産意欲を著しく減退させました。農村は後継者不足に悩み、
水田の荒廃はすすんでいます。
1961年、農業の生産拡大を目的として制定された、「農業基本法」が完全に失敗したことを、私たちは認識すべきです。
世界的な環境破壊・環境汚染、森林破壊などによる表土流出、温暖化にともなう異常気象、アメリカ式大規模農業にみられる農地の消費・
使い捨てなどにより、安定的な世界の穀物生産の持続が危惧され、また、世界の人口増加により食糧危機が予測される今日、
国は減反政策をただちに中止して、米の自給を守る政策を打ち出すべきです。
アメリカを中心とする外圧による、コメまで含めた農産物の輸入自由化の波が押し寄せ、日本農業は衰退の一途をたどっています。
「市場開放」、「国際化」の名のもとに、伝統的な主食の自給力の“自己破壊”がすすめられています。
悲しいことに、それを導いてきたのは、国や、政治や、既存の農協組織です。そして、
そうした古いシステムや考え方から長い間脱皮できなかった生産者や、私たち消費者の責任でもあります。そのことをたがいに謙虚に認め、
古い体質を改めて、新しい道に踏み出す。その最後のチャンスのタイムリミットに、私たちはすでにさしかかっています。
日本の農業と、米や農産物、つまり私たちの食の“自己破壊”をくい止める責任を、心ある農民だけに押し付けるわけにはいきません。また、
私たち消費者の主張や努力だけで、これまで歪んできた構造を変えることもできません。農や、食や、消費生活をとりまくあらゆる「理性ある人びと」
の信頼と連携の構築こそ、工業化一辺倒の世紀に終わりを告げ、自然を破壊するのではなく、自然とともに生きながらえる、
持続的な社会再建設の第一歩です。
生産者と消費者を分断する壁を打ち破り、ともに手を携えて、さわやかな、子供たちにやさしい新しい風を、この国に吹かせたいと、
私たちは願っています。
食と農の回復のための、一人ひとりからの行動、みんなが手を携えての運動は、続きます。