「減反廃止による米価反落説」批判
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杉浦孝昌(国士館大学非常勤講師)
はじめに
ガット・ウルグアイラウンド農業交渉において、日本のコメ市場開放が迫られていたときに、
ガットから提示されたドンケル案をめぐって、その是非を問う議論が、盛んになされていた。その代表的な論戦が、
ドンケル案を支持する速水佑次郎氏を代表とする政策構想フォーラムと、
それに反対する森島賢氏を代表とする米政策研究会との間になされたものであった。
この両者の主張を簡単に結論のみまとめると、次のようであった。前者は、
a.ドンケル案にしたがって関税化(この議論がなされた段階はミニマムアクセス-第1次関税輸入-
とそれ以外の2次関税輸入というのが盛り込まれていた)を受け入れても、内外価格差は当分十分埋め合わされる。
b.減反を徐々に解除して強制から自主減反に移行すると、米価は2009年には現在の水準よりも半分になるが、
その間に国内コメ生産をより合理化することばできるから、国内米作農業は最終的には生き残ることができる。
c.経済全体の対外開放=相互依存は避けられない趨勢である以上、この方向でコメ市場も国際的に開放して行くしか選択枝はない。
それに対して後者は、次のような議論を展開したのである。
a.ドンケル案を受け入れれば、その瞬間に減反政策を支える政府の論理
(それまで政府は市場開放阻止のために減反が必要という論理を農民説得に使っていた)が崩壊し、減反を全面的に解除せざるをえなくなる。。
b.そうすると一気に米価は下がり、国内のコメ農業は崩壊してしまう。
c.だから関税化は阻止すべきである。
速水氏は、関税化しても、日本稲作農業の生き残る道はあるとして、減反の緩やかな解除と、その間の稲作経営の合理化に期待をかけていた。
この議論の中では、減反政策そのものの是非については、焦点とはなっていなかった。しかし、速水氏は上の議論の中で、
「減反を全廃すればコメ生産は3~4百万トンのオーダーで増加し、それだけで米価は半減する。」(後掲文献1 p.215)といっている。
この根拠は、1984年に書かれた別の論文にあった(文献2)。
この「減反解除→米価反落」説に関しては、関税化反対の森島氏も異論をはさまなかった。それは、速水氏が「減反が解除されれば、・・・
半分ぐらいの価格に下がるということは常識」(文献1 p.47)と発言したことに対して、森島氏はなんら反論していないことからわかる。
その森島氏の議論は大きく破綻している。なぜなら、ミニマム・アクセスにしろ米輸入の強行にしろ、政府は減反を継続・強化してきたからである。
いずれにしても、この関税化をめぐって対立している議論の両方ともが「常識」としている、「減反解除により米価反落」
という予測の根拠はどこにあるのだろうか。この主張を成立させている経済学的論理がどのような性質のものであり、それが果たして妥当かどうかを、
速水理論にそって検討することにしよう。
1. 「国内自由市場均衡価格」
推定上の難点
文献2は、速水氏らの「減反解除→米価反落」説の論拠が示されている論文である。しかしその論文のそもそもの目的は、
高米価政策のもとでの減反政策に理論的支持を与えることにあった。そのために速水氏らは経済学の定説にしたがって、コメの生産者と消費者の利益
(経済学用語では、「余剰」という)、それに減反政策に伴う財政負担の3つの額を差し引きした結果(「社会的厚生水準」という)が、
減反をしたときとしないときとではどう違うかをみようとするのである。そのためには。生産者の利益と消費者の利益、
及び財政負担のいずれの数値を算定するときにも共通の基準となるコメ価格を設定する必要がある。
減反政策が実施されている時の価格の状態は観察可能なので実際の値をとれるが、高米価・生産調節政策がなかったら、
という仮定の状態のもとでの生産量と価格は、推定するしかない。その推定された価格を速水氏らは「国内自由市場均衡価格」と呼んでいる。
速水氏らは、さまざまな計算技術を使って、各年度ごとにその推定値を算出した。その結果、
昭和40年度の推定値は実際の生産者米価とあまり差はなかったが、しだいに差は開いていき、昭和55年度の推定値は生産者価格の約半分になった
(文献1 p.185)。これをとらえて速水氏らは、自由市場で米価が決まるとすれば、
その価格は政府の価格支持政策による生産者米価の大体半分まで下がる、としているのである。
「国内自由市場均衡価格」が生産者価格の約半分であったというこの理論上の推定結果を利用して、
コメ関税化議論の中で速水氏は先に引用したように、「減反を全廃すればコメ生産は3~4百万トンのオーダーで増加し、それだけで米価は半減する。
」(文献1 p.215)と主張したのである。これを図に沿って言い替えると、もし即時に減反全面解除すれば、
生産量と価格の関係を示す供給曲線はS-SからS'-S'へ動き、減反面積分すべてが即時にコメの生産に向い、しかも平均収量をあげるので、
減反のもとでの生産量約1,000万トンより3~4百万トン増加し(増加分はbc)、価格は(昭和56年度水準に比して)約半額になる、
というように解釈できる(図参照)。
しかしこれは誤解をあたえる言い方である。なぜなら、かりにこの説にしたがって市場メカニズムを考えると、理論上は、
減反解除=自由市場の実現がなされれば、自由市場における均衡点(図上のe点)まで、コメの価格・生産量・
需要量ともに変化するはずだからである。上の速水氏の言い方は、そこまでの移行経路を説明しているかにみえるが、実はそうなっていない。
速水氏の言うように減反解除とともに減反面積がすべて減反実施以前のように作付けされ生産量が増えるためには、
価格はいったんそのまま維持されなければならない(価格P1)。それは政府による価格支持が存在していなければならないことになる。
自由市場均衡であるから、この説明は明らかに矛盾している。減反以前の状態から導き出された均衡点(e点)と、
減反が解除された時に実際に何が起こり、需要と供給がどの価格で均衡するかという問題は、まったく別物なのである。つまり、
実際に減反解除されても、供給曲線はS'-S'まで動かずに、S-Sとの間に留まる可能性が強いのである。
速水氏は単に減反下における社会的厚生水準をはかるための一つの基準値として設定される、減反のない状態における「国内自由市場均衡価格」が、
あたかも減反を解除したときに起こるであろう状態を示しているかのような錯覚を与えているのである。
また、かりに供給曲線がS'-S'まで動いたとしても、速水氏の想定する価格低下状態は、均衡点eではなく、
単にf点を示しているにすぎないのかもしれない。f点は速水氏が想定しているように、
減反解除とともに生産量が需要動向を無視して減反以前の生産量水準を一気に回復した場合(生産量Mc)を示しており、
その生産量をすべて消費するために必要な価格水準はP2となる。この場合には、たしかに価格はP1からP2へと一気に下落する。しかし、
e点の均衡価格P*は、そんなに低くはならない。
本来の「自由市場均衡価格」は、非常に小さな無数の生産者と消費者が商品に関する完全な情報を瞬時に入手して、
すべての経済主体がそれぞれもっとも良いとする行動をとるという完全競争市場の想定のもので、推定された値である。しかし、速水氏の
「国内自由市場均衡価格」は、あくまで食管制度下での実測値を元に推定されている。これは、理論上の推定値に、
特殊な歴史性を織り込むことになる。つまり、生産費・所得補償方式による生産者米価の急激な上昇と開田政策のもとで高収量・
大生産量を実現したり、減反による生産量低下と収入低下を補うために、収量を伸ばそうとする農家の対応によって反収が伸びたりといった、
歴史的特殊性を速水氏も認めざるをえない。巨大な生産力は、決して単純に価格のみによって実現されたものではなかったのである。
ところが速水氏は、そうした政策的に誘導された結果もたらされた状況を、
あたかも価格という一つのファクターのみで生産量が決まる完全自由競争モデルのように見せかけているのである。したがって、彼の推論の中では、
価格によって決まる潜在的生産量(実際の生産量+減反面積から発生するコメ収穫予想量)が大きくでることになる。
生産量は価格のみによって決まってくるという理論上の想定には、無理があるといわざるをえない。
2. 市場と政府をともにコントロールする民意が重要
しかし速水氏も、コメの自由市場は即座に実現させるべきと考えているわけではない。むしろ彼は積極的に、
急激な価格の低下を招かないようなコントロールをすべきであると考えている。そのコントロールは、もちろん政府による政策によって実施される。
そして、最終的・長期的には、コメの輸入に対抗して国内稲作を存続させるために、当時の生産者米価に比して半額まで、
米価を低下させて行くべきであると、考えている。筆者も即座の全面的減反解除は、非現実的であると考える。
選択的減反は即座に実施すべきであるが、これまでの長年にわたる強制的減反によって、
すでに不可逆的な生業形態の変化を被ってしまった農家に対するある程度の期間の財政的支援は、それが減反政策の廃止という明確な方向性・
目標を持って位置づけられているならば、是認されるべきである。
速水氏の議論は、減反全面解除したときに米価が半減するかどうかという点を除けば、選択的減反への移行のシナリオを提示したという点で、
評価に値しよう。このシナリオは、コメ関税化議論の中で、速水氏を含むコメ輸入自由化を主張する政策構想フォーラムによって提案された。つまり、
(関税化を拒否して日米2国間協議によって輸入枠を設定するよりも)関税化していくと同時に、減反を緩和していく、というシナリオである。
これはあくまで関税化を中心とした議論なので、輸入がない状況における減反解除の影響を検討するものではない。しかし、そのシナリオを拝借して、
輸入をゼロとおいてやることによって、減反解除による国内米価の変化を描き出すことができる。
そのシナリオ(文献1 p.239-242)によれば、1992年を基準年として、
1999年までに20万トン分の減反緩和を均等割りで徐々に行っていき、2000年から2009年までさらに50万トン分(合計70万トン)
の減反緩和を行う想定になっている。その間に輸入米は、国内市場に7万トンから80万トンまで徐々に増加するという想定をおいている。つまり、
国内市場への総供給量の増加量は、10万トンから150万トンである。そして、この政策を選択することによってたどるであろう経過が、
次のように描かれている。
イ)1999年までは減反政策が維持されたとしても、農民による減反への反発から減反達成率は下がり生産量が増え、米価は25%低下する。
ロ)それ以降は、選択的減反に移行しても、米価が低下しているので、減反参加メリット(奨励金など)
の金額を適当にコントロールすることによって、ある程度の減反は確保できる。
ハ)同時に、(減反で進まなかった)規模拡大がすすんでコストが低下し、合理化がはかられて、外国産米との競争力が生まれ、
米価を2009年までに半分に低下させても、国内生産量は著しくは低下しない。
これによれば、価格は低下していき、減反対象地であった優良地では生産が復活するが、
価格低下によって採算割れを起こす劣等地での生産が放棄され、差し引き3~4万トンずつ、毎年国産米の生産量は減少していく。
さて、この国内米価(卸売り価格)を算出する式は、輸入量と減反緩和分のみが変数として入っている。その合計が300万トンに達すると、
国内卸売り価格がゼロになるという実際には起こりえない極端な設定になっている。しかし、かりにその算出式を使っても、次のことはいえる。
(算出式)
(1)国内卸売り価格指数(A)=1-(輸入量+減反緩和に伴う生産量の増加=B)÷300
(1992年を1とする)
*300(万トン)は、(基準年である1992年度の国内消費量1000万トン)×(価格の需要弾力性の逆数(0.1)+供給弾力性(0.2))
でえられる数字である。(1)の算出式は、政策変更による価格への影響を推定するものである。
(2)国内生産量(c)=[1000+減反緩和に伴う生産量の増加=B]×{1-0.2×[1-A÷100]}
*0.2は、価格の供給弾力性。(1)式と(2)式からわかるように、国内生産量は、卸売り価格が決まった後に事後的に決まり、
国内卸売り価格指数は総生産量には影響されないモデルとなっている。
(文献1 p.263の式を簡略化)
上の式で、現在の状況には存在しないのであるが、供給量の増加を減反緩和分のみで輸入はゼロとおいてやる。
減反緩和にともなって増加する生産量を速水氏にしたがって70万トンとすると、価格の低下は23.3%という結果になる。
1992年時点で減反解除しても、すでに農地でなくなったものや永年転作、
さらに転作して数年を経て技術的にすぐに水田に戻らない農地があるので、即時に実現する最大の生産可能量は、1,175万トン
(過去32年間の平均単収470キロ)とでる(文献3 p.45)。ここでの基準生産量は1000万トンであるから、
それよりも175万トンの増加が可能である。かりにそれが実現するとなると、米価はたしかに42%にまで下落する。
しかし、果たして生産可能限度いっぱいに生産増加が起こるであろうか?
速水氏の言った先の推定において潜在的生産量として使われている数字は、生産量から農家の自家消費量を引いた市場供給量(Mb)に、
減反面積から発生する予想収穫量(bc)を足したもの(Mc)と定義され、生産削減量は実際の生産量と休耕転作率から割り出されている。
簡単にいえば、減反対象地はすべて潜在的生産可能地として計算されている。しかしそれは非現実的な仮定である。一般的には減反対象地のうち、
すぐに復田可能な面積は約半分とされているので(文献3 p.43)、それを使えば、「国内自由市場均衡価格」は、
速水氏の推定方法によっても彼のつくった推定値より高くでるはずである。
さらに、減反緩和して生産量が増える、あるいは増えると予測されるだけで価格の低下がおこり、
それが限界地での生産を放棄させるであろうことは、十分予測できる。減反を全面解除しても、それによって価格が低下すれば、
採算のあわなくなった反収の低い土地や収穫量の割には経費のかかる栽培方法が放棄されて生産の減少が起こる。
減反緩和によって減反対象地の復田により生産量が増えても、その分がそのままダイレクトに価格低下につながらない。
これが真の選択的減反の実相である。
では、どの程度の価格水準で国内生産と需要が均衡するのであろうか。速水氏の価格半減説は、完全競争市場を念頭において予測された均衡値で、
非現実的である。より現実的な均衡値を考えねばならない。それには、
そもそもコメの市場価格は完全な自由競争市場によって決定されるわけでもないし、今後もそれを実現する必要はない、
ということをまず確認する必要がある。
たとえば、先の式を借用して、25%の価格低下に納めたいのならば(A=0.75)、卸売り価格は減反緩和分のみの大きさによって決まるので、
75万トンの減反緩和に抑えればよい(B÷300=0.25なので、Bは75)。速水シナリオを使うと、
減反緩和分がそのまま生産量の増加にはつながらず、その価格低下による生産減少分は、価格低下25%の時に、53.75万トンとでる。
したがって、このときの国内生産量は1021.25万トンとなる。速水シナリオは消費量の変化を明示的に組み込んではいないが、
それを計算すると、次のようになる。備蓄・在庫を除く総消費量を800万トンとすると、25%の価格低下で増加する消費量は、
需要弾力性0.1のもとでは20万トンとなり、生産量の増加分をほぼ吸収してしまう。したがって、
75万トン分の減反緩和とそれによる25%の価格低下では、増加した生産量は増加した消費量で相殺され、それ以上の価格低下圧力にならない。
つまり、価格低下25%というのが、こうした数量的要因のみを考えた場合でも、当面の均衡価格であるとみなすことができるのである。
では、75万トン分の減反緩和というのは、現実的であろうか? それは先の復田可能面積から収穫が予測される175万トンの半分弱に当たる。
選択的減反政策によって、この水準は十分実現可能であると考えられる。また、10%程度の価格低下を想定するならば、
175万トンの15%程度の減反緩和に止めなければならない。しかし、現在コメの価格は減反強化されているのにも関わらず、
ここ数年でその程度の低下を見ているのであって、15%でも減反緩和によって風通しの良い農業環境ができた方がよっぽどましであったといえる。
いずれにしろ、現在のような量的管理という貧しい発想に基づいた減反強化による抑圧的な生産調整ではなく、減反緩和によって、
大状況において価格メカニズムをある程度働かせつつ、そこで実現される自由さのなかで、
価格のみにとらわれない多元的な価値を各々の小状況において実現するコメつくり、コメ流通の向上を進める意欲を引きだした方が、
よほど得策である。政府は、価格メカニズムが暴走しない程度に、政策介入すればよいのである。市場も政府もともに失敗するというのは、
今や経済学の分野においてさえ、常識である。
3. コメ価格はそれほど下がらない
さらに客観的にみても、コメ価格が単純な数量的関係のみで動くものではないことは、現実の中で明かになりつつある。現在、
ほとんどのコメが政府管理を離れつつある。減反が100%達成されていても、政府あるいは農協の集荷率は1995年から急速に低下し、
すでに約55%でしかない。自由米がコメ相場を形成しつつあるのである。その自由米相場は、市場の需給動向をより敏感に反映している。
自由米の価格は一部超人気米を除いて、傾向的にも低下しているが、今のところ自主流通米に比べて5%程度の低さに留まっている
(<庄内はえぬき>の例。1998年2月23日付「商経アドバイス」)。自由米に比べて自主流通米が中間マージンをより多くとっていることや、
自主流通米制度では実際に農家が販売代金を受け取れるのが販売時点よりも相当遅れるという不都合を考えれば、その程度の価格の低さは、
大したことではない。だから、自主流通米から自由米市場にどんどんコメが集まっているのである。
現在ミニマム・アクセス輸入が行われている(2000年には見直しが迫っている)けれども、依然として消費者の国産米指向は強い。
昨年10月の調査によれば、その時点で米国産短粒種の価格が国内産に比べて約3分の2であったにも関わらず、外国産米を買ったケースは2%
に留まり、86%が今後も買いたくないと回答した(「米穀新聞」 1997年10月9日)。また、今年4月の食糧庁の調査によれば、
コメの購入先で縁故・産直に当たる「農家から直接(24%)」や、「親兄弟からもらった(24%)」がともに高い割合を示している(複数回答で、
量的把握はされていないが)。それらはともに1993年の大不作から急激に増加しており、消費者は自衛的手段を発動して、
国内生産者との結びつきを強めてきているのである。消費者の国産米への支持は底堅いと見るべきであろう。これを裏付けるように、
消費者は価格よりも品質を重視しているという意識調査結果も同時に出されている。そもそも家計に占めるコメ購入金額は、今や非常に低い
(10年前で、外食を除く穀物全体への支出は家計全体の約2%。「グラフでみる食料・農業・農村」p.15)。
価格よりも品質の方に消費者の関心が向くのは当然である。その品質も単に「うまい」
という舌先の末端味覚神経だけでとらえられる狭小なものを遥かに越えて、
健康や生活を育む環境という全体性からとらえられた品質でなければならないし、また、そうした視点・
視野を多くの人々が今や獲得しつつあるのである。
今や、市場を「顔の見える関係」という生産者と消費者との協同による小さな縁故関係に細分化していくこと、
あるいは市場とは本来細分化されたモノであるという再発見をすることが、未来を展望する上で、重要な戦略になりつつある。それによって、
普遍的で量的な把握に過度にたよる経済学の形式性や、
生産者と消費者のそれぞれが価格のみによって別個に合理的行動をとるはずであるという仮定を持った経済学理論の呪縛から逃れることは可能であり、
また逃れるべきである。それは単に絵空事ではなく、共同購入団体は無論のこと、すでに先進的なコメの卸・小売業によってさえ、
現実のものになりつつある。彼らは、消費者と生産者を繋ぐべく、店頭でさまざまな産地と銘柄のコメを揃え、
消費者のニーズに応えようとしているだけでない。自らの見識をもってコメをブレンドし、その場で精米して販売している。さらに、
消費者を産地に案内し、生産現場との交流にも努めている。品質への関心が高まっている状況では、形式的経済学が想定しているような
「個人の経済合理性」に基づく経済関係のみで人は行動するものではない。そこには何らかの経済外的社会関係が必要とされるのである。
そうした先進的試みをしている商人達は、単に流通利益を得るためだけの相場師ではない。コメつくりとコメの消費(食文化)
を演出するコーディネーターと位置づけ、評価すべきである。
しかし同時にコメに関しては、大量生産・大量消費という経済学的な分析に当てはまり易い部分も他方で存在することは認めざるをえない。ただ、
それを無限定的に認めず限界を明らかにしつつ、全体としては、消費者の要求と生産者の創意工夫とを引き出すような、
そしてそれが保証される限りにおいての、多様性を確保できる体制の創造こそ、現在求められているのである。
確かにコメは、消費の側からすれば、小規模な消費者がたくさんいて、誰も価格支配力を持ち得ない、完全競争市場に近いもののように見える。
しかし、生産の側では、そのような単純な想定は当てはまらない。日本の稲作は平均作付け面積が非常に狭く、
あたかも小生産者が無数にいる完全競争市場に見えるかも知れないが、しかし、
コメづくりへの参入やそれからの撤退はそう簡単にできるものではない。コメづくりを実現するためには、たとえ小規模面積であっても、
巨大な投資が必要であった。それは単に現在購入あるいは借地する場合の農地の価格と各種の機械・器具・
種や肥料にかかる金額を指しているだけではない。先祖の血や汗で伝えられてきた土壌や風土、日本稲作の歴史と文化という巨大なモノが、
水田に体現化されているという意味である。何世紀にもわたる巨大な投資の末に実現されている稲作は、したがって、
むしろ現在の巨大な投資を必要とする高度技術工業や巨大装置産業に、一面似ているのである。その面からいえば、
コメの価格が需要と供給という完全競争的市場原理で決定されると見るよりも、工業製品に準ずるようなフルコスト原理に基づいて決定される方が、
むしろ妥当である。ただ、工業製品のように画一化しない点は注意しなくてはならない。コメの生産には、
自然要因や文化要因が大きく影響するからである。
このように、少し考えただけでも、単純な完全競争市場を想定して決定される「自由市場均衡価格」が、いかに現実離れしたものかがわかる。
形式的経済学に基づいた米価半落説は、コメの生産・流通・消費に関わるすべての人々の自由なエネルギーの発露を押し込める脅しでしかない。
森島氏らの食管・減反擁護説、貿易自由化反対論も、速水氏と同じ方法を採用している点で、誤っている。
結び
近年、「環境」を考える議論は、経済学の分野でも盛んである。経済学においては、環境を金額で評価して、経済内部化するという議論が、
次第に強まっている。この説に従えば、水田という環境が持つ経済効果は、その一部と認められているダム機能だけでも、
年間約6000億円に達することが知られている(文献3 p.80)。それをコメ10kg当たりに直せば、約600円となる。
その文化的基礎の提供や生活環境への好影響などの公益的機能も含めれば、その額は容易に10倍に跳ね上がる。
もちろんこれらの数字は、一つの目安以上のものではない。本気で環境の金銭的換算を信じると、「炭素排出権の売買」
という本末転倒の議論にはまり込む危険性があるので、用心しなければならない。むしろ、環境の非経済性-経済外部性-、つまり、
その文化的社会的機能を正面から肯定的にとらえ、発見し、経済内部化せずそのまま文化・生命の価値を主張する方が、賢明であろう。
環境の大部分は、絶対的具体物であって、決して抽象化して売買できるものではないからである。
環境は優れて地域性の高いものであって、地球全体に広がっている空気すら地域的な財である。「アマゾンは地球の肺」
であるというような言い方を、グローバリストである環境論者は好んで使用しているが、生態学者によって、アマゾンや北米・
シベリアなどの成熟した森林では酸素の供給量と消費量はプラス・マイナスで釣りあっていることが、すでに明かとなっている。
環境維持に努力する人々の相応の所得を保証することも含めて、今日では金銭的保証が必要である事には、限度内で合意できる。そこに、
水田を単に経済手段の一つではなく、環境の一部とみなす考えも反映されているからである。同時に、
水田やその生産物であるコメは優れて地域性の強いモノである事も、合意されるであろう。外国産米の緊急輸入でも明らかになったように、コメは
「品質・味覚、生産者と消費者との縁故的交流、ローカル性を重んじる差別化商品」(大崎論文、「農水省「新たなコメ政策大綱」から何を開くか、」
『米の会通信』No.54, 1998.3.9)なのである。
■文献
- 富民協会/毎日新聞社、『農業と経済別冊 コメ関税化徹底討論』、平成5年11月5日
- 速水佑次郎・大塚啓二郎、「米価政策の社会的費用」、『基本法農政の経済分析』第2章、pp.182-205、明文書房、 昭和60年11月15日
- 減反やめよう!コメつくろう!全国ネットワーク編、『取り戻そう、日本の農を!いのちの権利を!-減反政策差し止め等請求事件・訴状』、 1995年2月3日