東北農政局が作ったポスターがある

東北農政局が作ったポスターがある。
http://www.maff.go.jp/tohoku/press/syokuryou/keikaku/080213.html

アフリカのノーベル平和賞受賞をしたケニアの環境活動家であるワンガリ・マータイが提唱した「MOTTAINAI」を掲げ、「米の作りすぎはもったいない」とするポスターである。このポスターは、農家に対し「米の生産調整に従うよう」促すためのポスターである。
「米の生産調整」とは、水田を水田として使わず、畑として大豆や小麦などを栽培するようすすめる政策である。以前、米の生産調整は「減反政策」と呼ばれ、水田を「休む」だけで農家にお金が渡された。耕作を放棄することでお金をくれるという政策であった。それにより、生産効率の悪い中山間地の棚田が耕作放棄されていった。減反政策だけが理由ではないが、日本の耕地は大きく減り、水田が減っていった。
平成20年度、ふたたび「減反強化」がはかられようとしている。

まず、生産調整を進める側の意見をきちんと聞いておこう。

■東北農政局長名義で出された、「米の生産調整の実効性確保に向けて」の全文である。

(東北農政局)
http://www.maff.go.jp/tohoku/press/press19/file/071214-2.html

食料政策の基本は、安全で安心な食料の安定的な供給を確保するとともに、食料供給基地としての農村地域の健全な発展を図りつつ、可能な限り自給率を高めることにあります。

米の生産調整に関しては、自給率向上の観点も踏まえ、これまで基盤整備を進めてきた水田などの食料生産資源が、国民の求める食料の生産へフル活用されるよう各般にわたる対策を講じてきています。米は主食として、特別な作物から限りなく普通の作物となってきたことから、国による全量管理を基本とした食糧管理法は、平成7年に廃止され食糧法となり、国の役割も備蓄運営等に限定されました。また、16年の食糧法改正により米の流通規制が原則撤廃されて、米価も完全に市場により決まる仕組みとなっています。

国内における主食用の米需要量は、ピークだった昭和38年の1,340万トンから現在830万トンに、10年後には745万トンになると見込まれており、その生産に必要な水田面積は現在の154万haから、現状の単収を前提とすると140万haとなります。その後も少子化・高齢化による需要量の更なる減少が予測されています。食料生産資源である水田を有効に活用するために、これまでも米から自給率の低い大豆・麦等の生産への誘導を図ってきていますが、これまで以上の更なる調整が今後とも引き続き必要となることは明らかです。
このため、産地づくり交付金などを手当てし、水田を中心とする土地利用型農業において、主食用の米以外の作物も将来にわたって安定的に生産できるような経営体の育成に資する各般の施策を展開してきています。
今年の2月から4月に掛けても、「生産過剰が続けば米価下落は必至」と過剰作付の解消を訴えてまいりましたが、東北における19年産主食用米の作付面積は、4年前よりも増加しています。減少を続ける米の消費量に応じて毎年拡大されてきた生産調整に、関係者が真剣に取り組んで来ましたが、作付面積は減っていません。その結果、19年産は平年作にも拘わらず前年産より更に過剰となり、東北の多くの銘柄で価格が下落しました。
一定の品質を満たしていれば、価格を重視する消費者・実需者も多く、また、機能性を有した食材への需要も拡大しつつあり、これらのニーズに対応した生産が求められています。変化し続ける需要に対応できる生産構造への転換は最も大事なことであります。先人たちの努力によって開発・整備された水田は、食料生産資源であるとともに環境資源でもあります。国民共通の財産としての水田を皆んなで有効利用して行きましょう。
水田所有者には他業種の従事者、経営者の方々もおられます。また、主食用の飯米生産に生き甲斐を求める方もおられます。さらに農業・食料関連産業を本業として米作りを経営の主部門又は一部門としている方もおられます。
価値観が多様化し複雑・高度化した社会においては、それぞれの立場を尊重し、社会規範に従いながら自由闊達に活動していくことが必要であり、水田関係者全てが同じ土俵の上で競争することが大切ではないかと思います。多様な意見があるのは当然のことですが、多くの関係者が意見を出し合って決めたことは基本ルールとして守り、主食用米の需要に見合ったバランスの良い生産に取り組んでいただきたいと思います。
平成19年12月14日
東北農政局長 山根祥生

■東北地方における平成20年度の作付けについて目標面積を38.8万ヘクタールとし、削減面積を約3.5万ヘクタールとしている。
どの水田が、「水田」でなくなるのだろう。
誰が、水田を「水田」として使うことをあきらめるのだろう。
そんな言葉に従うことなど、ない。
そんな「MOTTAINAI」ことをする必要はない。
農家が自分で判断すればいいことだ。

この文章では、さらに、「水田を有効活用」しようと訴えている。
水田は「水田」である。乾燥した畑ではない。
そんな「MITTOMONAI」詭弁を使うことはないではないか。

東北では冬の積雪を利用した雪解け水と、春から初夏にかけての降雨を活用して、土地を十分に活用し、自然生態系と調和し、最大限の生産を生み出す手法として「水田での稲作」=水稲稲作が生まれてきた。水田は、米を生産する場であるとともに、結果として水害や土砂災害などの災害を防止し、水を涵養し、急峻で変化に富んだ日本の地形と気象条件を緩和する役割を持った。さらに、トキやコウノトリ、メダカやサンショウウオ、カエルなど多くの生きものを育み、日本の豊かな自然を育み、「ふるさとの風景」、日本の景観をつくってきた。
この水田を、水田として活用しやすくするためにインフラ整備を行ってきたところに、麦や大豆を植えるよう転換しろと言っているのである。これは、「水田の有効活用」ではない。もし、そこが耕作放棄地になっているのであれば、その耕地の活用でしかない。
東北の平野部は豊かな耕地である。東北に限らず、日本の限られた平野部は豊かな耕地である。水田による米がもっとも作りやすく、畑にしても豊かな生産が見込めるところも多い。
いわゆる中山間地では、小規模な棚田がある。棚田の多くは集落より標高が高いところにある。棚田は、集落への土砂災害や水害を防ぎ、食べものとしての米を育ててきた。
これらを崩壊させたひとつの理由に、「減反政策」がある。
もちろん、背景には日本人が米中心の食生活から、肉や油、あるいは小麦食に移行してきたため、米の消費が減ったということもあるだろう。
減反政策は、政府のみで作り出したものではない。政府も、立法府も、それを求めた農業団体も、ひいては国民も求めた結果である。

しかし、もし、減反政策をとらなくても、人は、必要以上の米を食うことはできないし、売ることを目的にした人達は、自然と米から別の作物に転換したであろう。そして、売ることを主たる目的にしない人達は、それぞれの意志によって米を作り続け、水田を水田のまま守り続けたかも知れない。いや、守り続けたであろう。
今でも、わざわざ中山間地の棚田を残し、そのために平地の田を減反している農家がいるのである。経済効率から言えば、これは甚だしい不合理である。
しかし、その人は、経済効率や経済的欲求で生きている訳ではないのだ。
自分自身の誇りや、先祖、あるいは子孫、あるいは集落に対する責任、土地に対する責任を果たしたいという欲求を表しているのだ。
その誇りや責任感を失わせたのが、強制的な一律減反政策である。
経済的合理化を求めるがあまりに、人の経済以外の「誇り」や「自立」を失ってしまった。それが今の農村であり、都市であり、日本である。

平成16年の食糧法によって、ようやく、強制減反は幕を下ろし、ようやく米にも「作る自由」「売る自由」が保証され、農家が自らの意志によって稲作を続けるあるいは別の利用に変える道が開かれた。しかし、事実上「減反=生産調整」は続いていた。
ところが、平成20年度より、ふたたび減反政策の強制力を強めるという政策方針が出された。農村への減反のためのお金のばらまきと、従わない農家や地域への財政的いやがらせを行うと宣言している。
ますます、農家から誇りを失わせ、自立から遠ざけようとしている。

水田で、米を作りたければ作ればいいではないか。
あまって安くなったら、お金を目的に作っている人達は、生産量を減らすなり、辞めるであろう。だれが困る? 農家か? いや、都市生活者である。
お金を目的に作っていない人達は、安心して米を作り続けるであろう。
あるいは、経済的な目的の人であっても、米を作るだろう。売り先は日本人だけではない。家畜飼料にもなるだろう。環境問題や食料の倫理を考えると望ましくはないが、海外もあるかも知れない、燃料にすることもできる。

このポスターの報道が流れてから、もっとも不安や嫌悪感を打ち出したのは、都市に暮らし、インターネットを活用するブロガーたちである。
自分たちの食の足下がおかしくなっていることに、気づかされたのだ。
「米の作りすぎはもったいない」という言葉には、みっともなさを感じる。不安を感じる。はずかしさを感じる。
そんなことになってしまったのか、と。